ブラームスが許せない

ウシマツです。

ブラームスの魅力について書きました。
でも、単に「素晴らしい」ではつまらないので、斜めから見た魅力を紹介します。

ブラームスは何をしたか

ファンの多い作曲家、ブラームス。
その独特の作風は、多くのひとを感動させてやまない。

オーケストラ作品、室内楽、そのどれを聴いても、ブラームスらしさであふれている。

かたくなな作曲に対する姿勢。
ロマン派の巨匠として、伝統を正当に継承する。
それゆえ、交響曲第一番は、「ベートーベンの第十交響曲」と呼ばれる名誉も受けている。

伝統の継承者

しかしだ、これらの形容を我々は字面の通り受け止めてよいのか?
本当に、伝統の正当なる継承者、なのか?

ソレガシは、それらを一切合切否定する。
そしてブラームスに偽装者の汚名を着せることに圧倒的に賛成する。

伝統の正当なる継承者だ?
ちゃんちゃらおかしい。
伝統の衣に身を包んだ、前衛者だ。

ともすると、ワグナーをさえしのぐだろう。
とんでもないウソツキだ。

偽善者ブラームス

では、どこにそのような証拠があるのか?
そんなもの、至る所に転がっている。
頭かくしてシリ隠さず、だ。

たとえば、交響曲第一番だ。
ベートーベンの第十番と呼ばれている。
敬愛するベートーベンの継承者として認められて、非常に栄誉に感じたことであろう・・・。
ほんとにそうか?

ブラームスは、おとなしい人だった。
とくに、権威を持っている人間に対しては、逆らえない。
ハンス・リックなど、当時の指導的批評家にたいしては、ほぼ服従だった。

そんな彼だから、二十一年もかけて完成させた力作を自分のものとして認めてもらえないことに、内心激しくいきり立ったことであろう

ことは想像に難くない。

なんで、自分が作ったのに、ベートーベンのアトガマなの?

もちろん、その証拠などはない。
そんなもの残していたら、エライ人たちから袋叩きだろう?

だから、これはソレガシの下巣の勘ぐりだ。
ただし、下巣の勘ぐりをしたくなるような証拠はごろごろしている。

それは、彼の作品だ。
これらを注意深く聴けば、下巣の勘ぐりも納得がいくはずだ。

たとえば、さきの交響曲第一番だ。
重厚なオープニング。
続いて提示される第一主題。

この提示部にすでにそれが現れている。

第一交響曲でのカモフラージュ

この主題は、シンコペーションを多用したものだ。
なので、アクセントがいたるところでずれている。

しかし幸いにも伴奏が細かい音符をきちんと演奏してくれている。
なので、リズムを取りやすい。

しかし、ちょっと気を抜くと、どこが拍の頭かわからなくなる。

こういう意表を突いたアクセントの使い方が得意な作曲家を二人知っている。
ベルリオーズと、ストラビンスキーだ。

ベルリオーズはまだいい。
まだ素直だ。

しかし、ストラビンスキーはもはや犯罪だ。
その証拠に、代表作「春の祭典」初演のときは大騒ぎだ。

そして、ブラームスはストラビンスキーレベルだ。
ストラビンスキーと並び称されるべき前衛作曲家だ。

カモフラージュの天才

しかし、彼はその前衛性を非常に巧妙に隠している。
オーケストレーション、旋律、音色等を駆使し、絶妙に隠蔽したのだ。

第一楽章だけではない。
第二楽章、第三楽章も同じだ。
穏やかな曲想の中、道に迷ったことなど忘れさせてしまう見事さだ。

そして、やはり圧巻は最終楽章だろう。
冒頭の序奏からすでに現れる。

点描的な部分がある。
めまぐるしく楽器が入れ替わる。

ウェーベルンが得意とする手法だ。
実は、ブラームスが先駆者だった。

四楽章もカモフラージュだらけ

圧巻は、第一主題の扱い方だ。
終楽章の第一主題はその響きがベートーベン作曲の交響曲第九番の終楽章、歓喜の歌に似ている。
これがベートーベン第十番と呼ばれるゆえんだ。

その主題の提示はいい。
問題は、展開だ。

展開部は、めまぐるしく楽器が入れ替わる。
それとともに、その動きの激しさから、非常に華やかな印象を受ける。

しかし、その華やかさに耳を奪われてはいけない。
ここにもブラームスの前衛ぶりが遺憾なく発揮されている。

なにやってんだ!!

ここでも、アクセントの位置に注意しなければならない。
表拍、裏拍問わずフレーズがたたき込まれる。

楽譜上はきちんとした四拍子だ。
が、本人にとってはそんなものは関係ない。
ところかまわずたたき込む。

おかげで、またまたどこが頭拍か見失ってしまう。
わからなくなったので、テキトウに判断して聴き進めていると、頭拍ではなしところに頭が来るので、面食らってしまう。

しかし、ブラームスは巧妙だ。
そんな聴き手を察してか、その次の瞬間にしっかりとフォローする。
まるで自分が正当な伝統の継承者ではないことを隠すかのように。

明らかにされた詐欺師ぶり

いかがだろうか?

「訳が分からない」
「何であんないい曲をそんなにねじ曲げて聴くのか」
「そんな聴き方する方が犯罪だ」

そう、そのとおり。
しかし、こういう風に聞こえてくるのだから仕方がない。

「もっと、素直に聴けばいいのに」

俺って、素直ぢゃないの?

というか、素直に聴いて、すんなり入るのであったら、そっちの方がよっぽど前衛慣れしている。
というより、してやられている、と言った方がいいだろう。

なににやられているのか?
言うまでもない、正当な伝統の継承者などではないブラームスの魅力に。

以上、こういうブラームスが大好き、ウシマツでした。

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